NAVERまとめブログ

まとめサイトの雄、NAVERまとめ終了に伴い、名作記事の数々を遺産として残しています。

中華の歴史に残る名将の数々

近年人気の中国の歴史作品などに登場する、歴史に残る名将の数々をご紹介。


中華の名将


昨今、映画化もした秦を舞台にした大人気漫画作品キングダムを始め、三国志史記など、中華の歴史を記した物語に登場する、後世にも名を残した名将がたくさんいて、そんな名将の素性をエピソードつきで少々紹介していきます。
武勇のみで有名な人もいれば、戦略、軍師などで高名な人物なども。


武勇に優れた名将


白起



白 起(はく き、? - 紀元前257年11月)は、中国・戦国時代末期の秦の武将。公孫起とも表記される。秦国郿(現在の陝西省宝鶏市眉県)の人。昭襄王に仕え、各地を転戦して趙・魏・楚などの軍に数々の勝利を収め、秦の領土拡大に貢献した。


紀元前294年、左庶長に任ぜられ、韓の新城を攻めた。紀元前293年、左更にすすみ、韓・魏を攻め、伊闕の戦い(中国語版)で24万を斬首した。また、魏将公孫喜を捕え、5城を落とした。紀元前292年、魏を攻め、大小61城を落とした。紀元前278年、楚を攻め、鄢郢の戦い(中国語版)で楚の首都郢を落とした。このため、楚は陳に遷都した。同年、武安君の称を賜っている。紀元前273年、魏の華陽を攻め、華陽の戦い(中国語版)で韓・魏・趙の将軍を捕え、13万を斬首した。同年、趙将賈偃と戦い、その士卒2万を黄河に沈めた。紀元前264年、韓の陘城を攻め、陘城の戦い(中国語版)で5城を落とし、5万を斬首した。紀元前260年の長平の戦いでは、巧みな用兵で趙括率いる趙軍を兵糧攻めに追い込み大勝した。このとき20万余りに及ぶ捕虜の兵糧が賄えず、反乱の恐れがあるとして少年兵240人を除く全てを生き埋めにした。


しかし、本国にあった宰相范雎が、長平の戦いでの白起の活躍を自らの地位を脅かすものであるとして警戒し、さらに趙の首都邯鄲に攻め込もうとする白起を押しとどめ、わずかな条件で趙と和議を結んだ。紀元前259年、秦は、王陵を起用して邯鄲を包囲し、翌紀元前258年には増派もして、さらに指揮官を王齕に交代させたが、趙の援軍として現れた魏の信陵君・楚の春申君に大敗北を喫した。この危機を打開するために白起に出兵するよう命令が下るが、白起は一連の范雎の行動に不信感を抱き、病と称して出仕を拒んだ。『戦国策』によれば、この時慌てた范雎と国王が自ら指揮を乞うも、白起は趙が国力を回復して討ち難いとして応えなかったうえ、王齕の敗戦を「だから言ったことではない」と批判したという。これがさらに立場を悪くし、紀元前257年、ついに昭襄王によって自害させられた。
自害の直前、白起はこのように自問した。「我に何の罪あるか。なぜ自害せねばならぬのか」と。しばらく考えて、「我は固より死ぬべきだ。長平の戦いにおいて降伏兵数十万余りを一夜で生き埋めにした。それでも罪にならないのか。天に対し罪を犯したのだ」と嘆息した。秦の民衆は彼の死を哀れみ、各地に廟を建てて祀ったという。



【キングダム】六将筆頭の白起の実力は!?ずば抜けている能力を考察


廉頗(れんぱ)


廉 頗(れん ぱ、拼音:Lían Pō、生没年不詳)は、中国戦国時代の趙の将軍。藺相如との関係が「刎頸の交わり」として有名。
紀元前283年、将軍となり秦を討ち、昔陽を取る。紀元前282年、斉を討ち、陽晋(現在の山東省)を落とした。この功により上卿に任ぜられ、勇気のあることで諸侯の間で有名となる。

天下統一をねらう秦は白起を中心に他国への侵略を開始。廉頗と相如が健在であるうちは秦に侵攻されなかった趙も、この頃になると相如は病に倒れ、廉頗も高齢となっていた。紀元前260年、秦は王齕に趙の上党を陥落させる。廉頗は上党の避難民を救出するために派遣されたが、秦軍の勢いを目の当たりにした廉頗は要塞に籠城。戦いを長期戦に持ち込む。

敵地で長期戦になることに危機感を抱いた秦は一計を案じ、歴戦の猛者である廉頗に代わって、若く経験不足の趙括が総大将になるように仕向けた。この策にまんまとかかった趙の孝成王は総大将を交代させる。これを聞いた相如は重病ながらも王宮に出向き、孝成王を諫めたが聴きいれられず、結局趙軍は敗れ、捕虜となった40万の兵士が生き埋めにされた(長平の戦い)。以後、趙は滅亡の一途をたどっていくのであるが、廉頗は老骨に鞭打って戦争に参加した。長平の戦いのあと、趙の衰退を見た燕王喜は趙に軍を侵攻させるが、廉頗は現在の河北省柏郷県北部で燕軍を大いに破り、逆に追撃して燕都の薊を包囲し、燕から5城を取って和睦した。また秦も廉頗のいる趙には手が出せず、趙の孝成王は廉頗の長年の功績を称えて尉文という邑の地を与えて信平君に封じ、紀元前251年に平原君が死去したため空席になっていた相国代行に任命された。


刎頸の交わり(ふんけいのまじわり)は、中国の戦国時代に趙で活躍した、藺相如と廉頗が残した故事。刎頸の友ともいう。『史記』原文には「刎頸(之)交」とある。刎頸とは斬首のことで、「お互いに首を斬られても後悔しないような仲」という成語として用いられる。

史記』によると、藺相如は大国秦との外交で体を張って宝物「和氏の璧」と趙の面子を守り、趙王に仕える宦官の食客から上卿(大臣級)に昇格した。しかし歴戦の名将である廉頗は、口先だけで上卿にまで昇格した藺相如に強い不満を抱いた。それ以降、藺相如は病気と称して外にあまり出なくなった。

ある日、藺相如が外出した際に偶然廉頗と出会いそうになったので、藺相如は別の道を取って廉頗を避けた。その日の夜、藺相如の家臣たちが集まり、主人の気弱な態度は目に余ると言って辞職を申し出た。だが藺相如は、いま廉頗と自分が争っては秦の思うつぼであり、国のために廉頗の行動に目をつぶっているのだと諭した。

この話が広まって廉頗の耳にも入ると、廉頗は上半身裸になり、いばらの鞭を持って、「藺相如殿、この愚か者はあなたの寛大なお心に気付かず無礼をしてしまいました。どうかあなたのお気の済むまでこの鞭で儂をお打ち下され」と藺相如に謝罪した。藺相如は「何を仰せられます、将軍がいてこその趙の国です」と、これを許し、廉頗に服を着させた。廉頗はこれに感動し「あなたにならば、たとえこの首をはねられようとも悔いはありませぬ」と言い、藺相如も同様に「私も、将軍にならば喜んでこの首を差し出しましょう」と言った。こうして二人は互いのために頸(首)を刎(は)ねられても悔いはないとする誓いを結び、ここに「刎頸の友」という言葉が生まれた。この二人が健在なうちは秦は趙に対して手を出せなかった。



【面白いクイズに挑戦_129】「刎頸の交わり」って何?


項羽(項籍)


項 羽(こう う、Xiàng Yǔ、紀元前232年 - 紀元前202年)は、秦末期の楚の武将。秦に対する造反軍の中核となり秦を滅ぼし、一時“西楚の覇王”(在位紀元前206年 - 紀元前202年)と号した。その後、天下を劉邦と争い(楚漢戦争)、当初は圧倒的に優勢であったが、次第に劣勢となって敗死した。
姓は項、名は籍、字が羽である。
項羽は、楚の将軍であった項燕の孫。項氏は代々楚の将軍を務めた家柄であった。『史記』では本籍を下相としている。叔父の項梁に養われていた。
出典 項籍 - Wikipedia


史記』によれば、項羽は文字を習っても覚えられず、剣術を習ってもあまり上達しなかった。項梁はそのことで項羽を怒ったが、項羽は「文字なぞ自分の名前が書ければ十分です。剣術のように一人を相手にするものはつまらない。私は万人を相手にする物がやりたい」と答えたので項梁は喜んで集団戦の極意である兵法を項羽に教えた。項羽は兵法の概略を理解すると、それ以上は学ぼうとしなかった。
項梁に従い、呉に移住した。成人すると、身長が8尺2寸(1尺が23-24cmとして約188-196cm)の大男となり、怪力を持っており、才気は人を抜きんでていたこともあって、呉中の子弟はすでに項羽には一目置いていた。また、瞳が二つあったと伝えられる(重瞳)。


司馬遷は『史記』の中で「項羽が勃興したことは何という速さだろう。項羽は土地も有していないのに、勢いに乗って民間の中から決起し、3年で秦を滅ぼし、天下を分けて王侯を封じて、覇王と名乗るまでになった。終わりこそ全うしなかったが、古今、いまだかつてなかった事業であった。(項羽は)自分のなすべきは覇王の業と考え、武力で天下を征服・管理しようとして、5年間で己の国を滅ぼし、自分自身も死んでしまった。それでも、死ぬ前にもまだ悟らず、自分を責めようとしなかった。『天が私を滅ぼすのだ。戦い方の過ちではない』と語ったのは、間違いの甚だしいものではないか」と評価している。


孫策も憧れた「西楚覇王」項羽が残した伝説の戦いベスト3 | はじめての三国志


劉邦軍56万VS項羽軍3万でも項羽が勝利した、彭城攻略戦(ほうじょう こうりゃくせん)など、数々の伝説的戦が歴史に残っています。



秦楚漢編 BC209-202 項羽と劉邦


彭越(ほうえつ)


彭 越(ほう えつ、? - 紀元前196年)は、中国秦末期から楚漢戦争期の武将。字は仲。秦末期の戦乱の中で盗賊として活躍し、劉邦の幕下に入ってからは後方撹乱などに戦功を挙げた。

昌邑(現在の山東省菏沢市巨野県)の人で、若い頃は鉅野の沼沢(後の梁山泊との説がある)で漁師をやりながら盗賊業を行っていた。秦の悪政により世が乱れてくると幾度も衆に推されて、首領となる。その際に「首領になるからには明朝の出陣の日に一番遅れた者は処刑する」と言い聞かせた。だが、彼らは烏合の衆であり明朝になっても集まらず、午後になって集結する者もいたほどであった。彭越は明言通りに一番遅れた衆のひとりを殺し、これにより衆は彭越の命令を聞くようになった。


その頃、世の中は陳勝・項梁たちの蜂起で天下騒乱と成り、楚の義帝の命により、劉邦が秦の首都・咸陽へ向けて進軍する途中で旧魏の領内にある昌邑を攻め、彭越はこれに協力して昌邑を攻め落とした。

その後、秦は項羽によって滅ぼされ、項羽は居城に戻って対秦戦争で戦功のあった者に対する領土分配を行ったが、彭越には何も与えられなかった。これに怒った彭越は、同じく不満を持っていた旧斉の王族の田栄たちと結び、彭越は田栄より将軍の印を受けて、梁(旧魏の地、現在の開封市周辺)にて兵を起こした。項羽の分配は非常に不公平なものであったので、彭越のみならず全国で項羽への反乱が起き、その中でも漢中へ封ぜられた劉邦は関中へ攻め上がり、旧秦の領土を全て手に入れ、項羽と対立するようになった。

彭越は梁で暴れ周り、都市をいくつも落とした。これを見た項羽は武将の蕭公角に大軍を付けて討伐に向かわせるが、彭越はこれを撃退した。


その後、劉邦が東へ出てきて、旧魏の王族の魏豹を連れてきて魏王の位に就け、彭越をその宰相とした。劉邦項羽の軍に敗れて逃亡したので、彭越も根拠地を離れて逃亡し、ゲリラ戦術に入った。常に一つところに留まらず、現れては楚軍の兵糧を焼いて回り、項羽がやってくると逃げるということを繰り返したため、楚軍は食糧不足が続いた。また堪え性の無い項羽は度々彭越の討伐に戻るため、主敵である劉邦への対峙を続けられなかった。これにより劉邦項羽の圧力を受け続けることなく、何度となく命拾いをすることになった。

劉邦項羽の争いは佳境に入り、広武山で対峙したが、食料が切れたことで一旦和議してそれぞれの故郷へ帰ることにした。しかし劉邦張良の献言により項羽の背後を襲い、それに先んじて彭越と韓信に対して共同して項羽を攻めるように言ってきたが、彭越も韓信もこれに従わなかった。劉邦がこれに対する褒美を何も約束しなかったからであり、参戦すれば漢楚の決着が付くが、自分は争っているからこそ劉邦にとって価値があると分かっていたからである。

単独では項羽に敵し得ない劉邦軍は項羽軍に敗れ、窮した劉邦韓信に対して正式に斉王にする約束をし、彭越に対しても梁王にすると約束した。これで納得した彭越と韓信は戦場に向かい、この援軍を得た劉邦項羽を垓下に追い詰めて滅ぼした。


衛青


衛 青(えい せい、拼音: Wèi Qīng、? - 元封5年(紀元前106年))は、前漢武帝に仕えた武将。字は仲卿。爵位は長平侯。河東郡平陽県の出身。母は婢であった衛媼(えいおん)。幼少時に下級官吏の鄭季(ていき)の家に引き取られていたため、父親は鄭季とされる。子は衛伉・衛不疑・衛登ら。

匈奴征伐に際して車騎将軍に任命され、匈奴の事情に通じていたことから十数回出陣し、連戦連勝して匈奴の首を数万討ち取り、匈奴の領土(現在の内モンゴル自治区バヤンノール市)を奪い取るなど、多大な功績を挙げる。その後、軍功により大司馬大将軍にまで出世するが、政治にはあまり口出ししなかった。


霍去病(かくきょへい)



霍 去病(かく きょへい、拼音: Huò Qù-bìng、紀元前140年 - 紀元前117年)は、前漢武帝時代の武将である。父は霍仲孺。母は衛少児(衛子夫・衛青の姉)。異母弟は大司馬大将軍になり、武帝後の政治を取り仕切った霍光。
霍去病の母の妹にあたる衛子夫が武帝に寵愛される戻太子を生んで皇后に立てられたため、親族にあたる霍去病も武帝の覚えが良く、寵愛されていた。また、漢王朝創立時からの功臣である陳平の玄孫の陳掌は霍去病の母と密通しており、霍去病の義父となった。


騎射に優れており、18歳で衛青に従って匈奴征伐に赴いている。その後も何度も匈奴征伐に功績を挙げ、3万の首を上げ、紀元前121年に驃騎将軍に、さらに紀元前119年には匈奴の本拠地を撃破し、衛青と並んで大司馬とされた。大功と武帝の寵愛により並ぶ者が無くなった霍去病だが、紀元前117年、わずか24歳で病死した。

霍去病と衛青は同時代に活躍し、血縁でもある事からよく比較される。衛青は少年時代に奴隷であった経験から人にへりくだり、常に下級兵士の事を考えていたと言われる。その一方で、霍去病は物心付いた時には既に一族は外戚であり、叔父が匈奴討伐に大功を上げていた。その事から叔父とは対照的に傲慢であり、兵士が飢えている時に自分たちは豪華な幕舎の下で宴会を開くような事をしていた。

しかし宮廷でも兵士の間でも、霍去病のほうが人気は上であった。衛青はへりくだりが度を過ぎて媚を売るような所があったとされ、また、霍去病の傲慢も頼もしい勇壮と見られていた模様だった。武帝も自身の性格から、積極果敢な霍去病をより好んでいた。

また衛青が李広の末子の李敢に襲撃されたことに憤慨し、その李敢を射殺した逸話によって世間からは義侠の士として人気があったという。


楊大眼


楊 大眼(よう たいがん、? - 518年)は、中国の北魏の軍人。孝文帝、宣武帝に仕え、梁と戦った。

生年は不明。武都の氐族の仇池国王の楊難当の孫にあたる。優れた身体能力を持っていたが、妾腹の子であったため、幼少期は親族から省みられることはなかった。

太和年間、北魏に出仕し、奉朝請に任じられた。そこで楊大眼は、3丈の縄を兜にくくりつけて走り、それで縄が地面につかず、真っ直ぐ張るほどの速度で走り、軍主に任じられた。孝文帝の南征に従って功績を上げ、その武勇は「六軍に冠する」と称された。宣武帝の初年、奚康生とともに寿春に入り、功績により安成県開国子に封ぜられ、食邑300戸を受けた。直閤将軍に任じられ、まもなく輔国将軍・游撃将軍の位を加えられた。

征虜将軍・東荊州刺史に転じ、樊秀安が反乱を起こすと、李崇の下でこれの平定に活躍する。


非常に武勇に優れており、戦では率先して突撃したという。当時から「関羽張飛がよみがえっても、楊大眼には敵わないだろう」と恐れられ、淮河、泗水、荊州、沔州などの地域では「楊大眼が来るぞ」と言えば泣く子も黙る、虎を殺した、任地にいる限り盗賊が出現しなかった、などその武勇をあらわすエピソードは非常に多い。
文盲ではあったが記憶力に優れ、聞いたことは忘れることが無かったという。また命令についても、全て部下に口述筆記させていた。


韓世忠


韓 世忠(かん せいちゅう、1088年 - 1151年9月15日)は、中国の宋の軍人。字は良臣。武勇に優れた抗金の名将で、一人で一万人に匹敵するということから万人敵と呼称される。なお、彼の妻である梁紅玉もまた夫とともに金と戦った。夫婦は仲は非常に睦まじかったという。

延安の貧家に生まれる。18歳のとき募集に応じて兵と成り、軍人としての生涯を送ることになる。1105年(崇寧4年)、西夏が境を犯すとこれに出撃。大功をたてるが、童貫の評価は芳しいものではなかった。

1120年(宣和2年)、方臘の乱が起きる。韓世忠は王淵指揮下の将校として鎮圧に従事する。反乱軍を破り、ついには方臘を捕虜にすることに成功した。このとき、韓世忠の活躍がめざましく、王淵から「万人敵」と賞賛される。しかし、方臘を捕らえた功績は辛興宗に奪われてしまう。また水滸伝においてもこの功績は魯智深のものにされてしまっている。


1121年(宣和3年)にも金を大敗させ、盗賊を捕らえている。また、金の侵入により王帥数万が敗走するなか、一人で敵の包囲を破り、なんとか欽宗を逃亡させることに成功している。

靖康の変(1126年)の後、高宗を済州まで護衛し、以降は抗金闘争に明け暮れることになる。「黄天蕩の戦い」では妻の梁紅玉とともに8千の兵で金の10万という数の差を巧みに水撰で覆し、金兵2万5千を倒すという殊勲を挙げる。また、1134年(紹興4年)には高宗から「中興の武功第一」と称された。

1141年(紹興11年)、秦檜が金との和平を進める中、岳飛は無実の罪で殺され、韓世忠も兵権を奪われる。兵権を奪われたのちは隠退し、自ら清涼居士と号し悠々自適の人生を送った。隠退後は、客が来ればもてなすが、二度と兵事を語らなかったという。


鄧 艾(とうがい)



鄧 艾(とう がい、拼音: Dèng Ài、生年不詳 - 264年)は、中国後漢末期から三国時代の魏の武将、政治家。字は士載(しさい)。荊州義陽郡棘陽県(現在の河南省南陽市新野県)の人。子は鄧忠・その他二名。孫は鄧朗・鄧千秋。曾孫は鄧韜(鄧朗の子)・鄧端理(鄧朗の子)。玄孫は鄧行(鄧韜の子)。内政・軍事問わず多くの功績を挙げ、姜維の北伐を幾度も防いだ。晩年には蜀征伐を行ない、劉禅を降伏させた。


当時、田地を拡大して穀物を蓄え、賊国(呉)を滅ぼすための基礎とする計画が立てられた。鄧艾は陳項以東寿春までの地域に派遣され、そこで視察を行なった。視察を行なっていく中で、この辺り一帯の田地は良質であるが水が少ないため、十分に土地から収穫を上げられていないと指摘した。このため渠を開き、水を引いて灌漑することにより、大いに食糧を収穫することができ、また水運の道も通すことができるのだと考えるに至った。鄧艾は都に戻ると、運河整備の必要性を司馬懿に強く説き、『済河論』という書を著して、その趣旨を皆に説明した。また、それと合わせ「昔、黄巾が破れた事で屯田を行ない、許都に穀物を蓄えて四方を制しました。今や三方面はすでに平定され、淮南の地域のみが残されております。また大軍が侵攻するごとに、半数以上の兵を遠方より送り出すため莫大な費用を浪費し、大きな負担となっております。そこで、陳・蔡の間の土地は低湿で田質が良いため、許都付近の稲田を廃して、水路を併せ東下させるのが宜しいかと思います。淮北において二万人を、淮南においては三万人を屯田させ、十分の二ずつを交代して休ませ、常に四万人で耕田しつつ守備に当たらせるのです。水は豊富にあるので、常に西方(隴右屯田)の三倍は収穫が期待できます。計算しますに、諸経費を除いても毎年五百万石を超える穀物を軍の兵糧として提供できるため、六・七年間もすれば三千万石を淮水の沿岸地域に蓄積することができ、これは十万の将兵の五年分の糧食に当てることができます。これを基として呉の隙に乗じれば、どんな大規模な遠征でも勝利を得られることでしょう」と進言した。司馬懿は進言を容れ、全て実行に移した。

241年、ついに運河が完成した。これにより、淮南で事変が生じて軍兵を興すことになった際には、いつも船団を容易に長江・淮河に到達させることができるようになった。


その後、参征西軍事となり、南安太守に昇進した。249年、姜維が雍州へ侵攻してくると、郭淮につき従いその侵攻を防いだ。姜維が攻勢を諦めて退却を開始すると、郭淮はそれに乗じて、姜維に協力していた羌族の攻撃に向かった。鄧艾は、姜維が退却したとはいえまだそう遠くには至っていなかったため、こちらの動きを知ると引き返してくるのではないかと思った。そのため郭淮に、諸軍を分けて一部を備えとして残し、不慮の事態に備えるべきであると進言した。郭淮は鄧艾を留めて白水の北に駐屯させた。三日後、姜維廖化を派遣し、白水より南下して鄧艾の陣営の向かい側に陣営を構築した。しかしこの時の鄧艾軍の兵数は乏しく、兵法から見てもこのまま渡河して攻めてくるのが正攻法であった。このため鄧艾は、姜維の軍勢が急いで引き返してきたものの、橋を作ろうとせず長期戦の構えを見せたことを不審に思い、姜維廖化をこちらに対峙させ自分達の動きを封じておく間に、姜維自身が東より洮城を攻撃するという作戦に違いないと考えた。洮城は白水の北にあり、鄧艾の陣営より六十里の距離があった。鄧艾は、諸将に命じてその日の夜間に密かに軍を移動させ、洮城へ急行した。狙い通り姜維は渡河して洮城へ押し寄せてきたが、鄧艾が既に城に立て篭っていたので、諦めて退却した。この功績により、関内侯の爵位を賜り、討寇将軍の号を加えられ、後に城陽太守へ転任した。


軍略家


孫武


孫 武(そん ぶ 紀元前535年- 没年不詳)は、中国古代・春秋時代の武将・軍事思想家。兵法書孫子』の作者とされており、兵家の代表的人物。斉国出身。字は長卿。孫臏の先祖。「孫子」は尊称である。

「戦わずして勝つ」という戦略思想、戦闘の防勢主義と短期決戦主義、またスパイの重要視など、軍事研究において戦略や戦術、情報戦など幅広い領域で業績を顕し、ベイジル・リデル=ハート、毛沢東など、現代の軍事研究者、軍事指導者にも重要な思想的影響を与えた。その軍事思想は航空技術や核兵器など、古代に想定できなかった軍事技術の発展した数千年後の現代においても有効性を失わず、今なお研究対象とされている。



孫子の兵法』で有名な中国の武将、孫武の戦いの鉄則


呉起



呉 起(ご き、紀元前440年 - 紀元前381年)は、中国戦国時代の軍人、政治家、軍事思想家。孫武、孫臏と並んで兵家の代表的人物とされ、兵法の事を別名「孫呉の術」とも呼ぶ。死後兵法書呉子』の作者に擬せられた。子は呉期。
衛の左氏(現在の山東省菏沢市定陶区)の人。立身出世を志して、曾子(曾参)に学んだが、母の葬儀に帰らなかったため不孝として破門される。母の葬儀に帰らなかったのは、かつて仕官のため各地を転々としたものの、仕官先が見つからないまま家の財産を使い果たし、そのことを馬鹿にした人を故郷で殺害した後ろめたさのためであり、呉起は素直に曾子のもとを去った。


その後、魯の元公の嘉に仕えてその将軍となる。斉人を妻にしていたために将軍に任用する事を危ぶまれたが、先んじて妻を殺すことでそれを晴らした。しかし、それが結局人格に対する不信感を産み、魯の大夫たちにより「呉起は自分の妻を殺害したばかりでなく、魯と兄弟国である衛を独断で侵略した怪しからん人物である」という讒言にあって、彼は元公から懲戒免職されて失脚し、身の危険を感じて魏の文侯のもとに走る。

文侯は魏の歴代の君主の中でも一二を争うほどの名君で、積極的に人材を集め、魏の国力を上昇させていた。文侯が呉起を任用するかどうかを家臣の李克に下問したところ、李克は「呉起は貪欲で好色ですが、軍事にかけては名将司馬穰苴も敵いません」と答え、文侯は呉起を任用する事に決めた。

呉起は軍中にある時は兵士と同じ物を食べ、同じ所に寝て、兵士の中に傷が膿んだ者があると膿を自分の口で吸い出してやった。ある時に呉起が兵士の膿を吸い出してやると、その母が嘆き悲しんだ。将軍がじきじきにあんな事をやってくだされているのに、何故泣くのだと聞かれると「あの子の父親は将軍に膿を吸っていただいて、感激して命もいらずと敵に突撃し戦死しました。あの子もきっとそうなるだろうと嘆いていたのです」と答えたと言う。この逸話(「吮疽の仁」と呼ばれている)の示すように兵士たちは呉起の行動に感激し、呉起に信服して命も惜しまなかったため、この軍は圧倒的な強さを見せた。

呉起は軍を率い、秦を討ち、5つの城を奪った。この功績により西河の郡守に任じられ、秦・韓を牽制した。


文侯が死に、子の武侯が即位すると田文と宰相の座を争うが、これに敗れる。これを不服として、本人に抗議し、軍略・政治力・諸侯への威信、それぞれどちらが優れているかを問い質した。すると、田文は三つとも呉起の方が優れていると述べた上で、「だが、今の主君は年若くして民からの信望も薄い。このような状況においては、私と貴殿とどちらが大役を任されるだろうか?」と尋ね返した。ここにおいて呉起は己が田文に及ばないことを認めた。

その後田文が亡くなり、文侯の女婿でもある韓の公族の公叔が後任の宰相となった。しかし公叔は呉起を嫌ったために、妻の弟である武侯に呉起のことを讒言した。そのために武侯は呉起を疎み始め、両者の間は上手くいかなくなった。さらに公叔は呉起を陥れる策略を画策し、呉起に反乱の罪を着せようとしたので、ついに呉起は楚に逃亡した。



春秋戦国時代 戦国時代編 BC390-371 呉起と田斉の成立


楽毅


楽 毅(がく き、拼音: Yuè Yì、生没年不明)は、中国戦国時代の燕国の武将。燕の昭王を助けて、斉を滅亡寸前まで追い込んだ。昌国君、または望諸君とも呼ばれる。子に楽間。
楽毅の先祖は魏の文侯に仕えた楽羊であり、楽羊は文侯の命令により中山国(燕と斉と趙が接する所にあった小国。現在の河北省保定市の周辺)を滅ぼし、その功により中山の首都霊寿に封じられた。その子孫はそのまま霊寿に住み着き、その後復興された中山国に仕えたようである。その縁から楽毅も中山国に仕えていたとも言われているが、彼の前歴は今でも明らかになっていない。


斉攻略戦で、楽毅は破竹の勢いで斉の70余の都市を次々と落とし、「楽毅来る」というだけで門を開いた城も相次いだ、というエピソードもある天才将軍。


キングダムのレジェンド、楽毅(がくき)は何をした人? | はじめての三国志


紀元前279年、そんな最中に燕で昭王が死に、太子の恵王が即位した。恵王は楽毅の事を太子時代から良く思っておらず、ここに付け込む隙があると見た田単は反間の計を用いた。燕に密偵を潜り込ませ、「即墨と莒は今すぐにでも落とすことが出来る。楽毅がそれをしないのは、斉の人民を手なずけて自ら斉王になる望みがあるからだ」と流言を流し、恵王の耳に入るようにした。恵王はこれを信じ、楽毅を解任し、代わりに騎劫を将軍として送った。

このまま国へ帰れば誅殺されると思った楽毅は、趙へ亡命した。趙は喜んで迎え、燕・斉の国境の地に封じて望諸君と称し両国に睨みを効かせた。楽毅が解任されると田単は反攻に転じ、楽毅が奪った都市を全て取り返した。

恵王は、ここで楽毅が恨みを晴らさんと攻め込んでは大変と、代わりの将軍を送った事の言い訳と楽毅が亡命した事を責める書を送った。楽毅はこれに「燕の恵王に報ずるの書」と呼ばれる書で答え、その中で先王への溢れる敬愛と忠誠の情を記し、亡命したのは帰って讒言で罪人にされることで、その自分を重用した先王の名を辱めることを恐れたからだと書した。恵王はこの書によって誤解を解き、楽毅の息子楽間を昌国君に封じ、楽毅との和解の証拠とした。この「報遺燕恵王書(燕の恵王に報ずるの書)」は古今の名文と呼ばれ、諸葛亮の『出師表』と並んで「読んで泣かぬものは忠臣にあらず」と言われた。

楽毅はその後趙と燕との両方で客卿とされ、両国を行き来し、最後は趙で没した。



楽毅とはどんな人物? 孔明が自ら比した悲劇の漢


田単


田 単(でん たん、紀元前3世紀前半頃)は、中国・戦国時代の斉の武将。燕によって滅亡寸前に追い詰められた斉を優れた知略によって救った。

斉の公族・田氏の遠縁にあたり、湣王の頃に斉の都・臨淄の市場の役人となった。

紀元前284年、燕の将軍・楽毅率いる5ヶ国の連合軍によって斉が敗北し臨淄が占領されると、湣王は逃亡し莒に立て籠もった。田単も東の安平へ逃げ込むが、燕の勢いを察知してか一族の者に馬車を補強させた。その後、燕軍によって安平が陥落すると人々は脱出したが、馬車の車軸が折れたりなどして燕軍に捕らえられる者が続出した。そんな中、補強していた田単の一族は無事に即墨へ逃れることができた。

快進撃を続ける燕軍は70余もある斉の城を次々と落とし、残すは莒と即墨のみとなった。莒では湣王が宰相の淖歯に殺害され、その子・襄王に代替わりする事態に陥っていたものの数年間も城を守り通していたため、攻めあぐねた楽毅は即墨に矛先を向けた。城を守る即墨の大夫はこれを迎撃するが返り討ちにあい敗死してしまう。これを受けて即墨では今後の方針が話し合われ、安平での出来事を知る者達から、その知略を嘱望されて田単が将軍に立てられ、城を守ることになった。

その最中の紀元前279年、燕の昭王が死去し、太子の恵王が即位した。恵王と楽毅の仲が悪い事を知った田単はこれを好機にと燕へ間者を放ち、「莒と即墨はすぐにでも落とすことが出来る。楽毅がそれをしないのは、自ら斉王になる望みがあるからだ」「斉が恐れているのは、将軍が代わり容赦なく攻められることだ」との噂を流した。恵王はこれを信じて代わりに騎劫を派遣し、楽毅には帰国するよう命じた。その結果、強敵・楽毅を亡命に追い込むことに成功し、燕軍は王の処置に憤慨し士気は落ちた。

次に田単は城内の結束を促すよう考え、城内の者に食事のたびに家の庭で祖先を祭らせた。するとその供物を目当てに無数の鳥が集り、誰しも不気味な様子を怪しんだ。これを田単は「神の教えによるもの」と言い、「いずれ神の化身が現れて私の師となるであろう」と布告した。これを聞いたある兵士が「私が師になりましょうか」と冗談を言うと、田単は嘘と承知した上でその者を「神師」として強引に祭り上げ、自分はその指示に従うという姿勢を見せた。そして軍令の度にこの神の名を用いて人々を従わせた。

続いて「捕虜になると鼻そぎの刑に処されると恐れている」「城の中では城の外にある祖先の墓を荒らされないか恐れている」という偽情報を燕軍に流した。敵将・騎劫がその通りにして見せつけると、即墨の人々は燕軍への降伏を恐れ、祖先を辱められたことへの恨みから団結し、士気は大いに上がった。


城内の人々の状況から、いよいよ出撃の時期が訪れたと判断した田単は、まず城兵を慰撫した。

次に兵を隠して城壁を女子供や老人に守らせ、あたかも城内が困窮しているように装い、燕軍へ降伏の使者を派遣。更に即墨の富豪を介して燕の将軍に対し「降伏しても妻や財産などに手を出さないほしい」との安堵の約束と金を渡した。これらのことにより燕軍は勝利を喜び、油断を深めていった。

そこで田単は千頭の牛を用意し、鮮やかな装飾を施した布を被せ、角には刀剣、尻尾には松明をそれぞれ括り付け、夜中に城壁に開けておいた穴からこれを引き連れた。そして、たいまつに火をつけ尻を焼かれ怒り狂う牛を敵陣に放った。燕軍はその奇怪な姿の牛の突進に驚き、角の剣でことごとく刺し殺された。また、5千の兵もこれに続いて無言のまま猛攻をかけ、更に民衆も銅鑼や鐘などで天地を鳴動させるかのように打ち鳴らし、混乱を煽った。そのため、燕軍は大混乱に陥り、騎劫も討ち取られた。

田単はこの勢いに乗じ、70余城全てを奪回した。こうして首都・臨淄に戻ることができた斉の襄王は、田単の功績を認めて、安平君に封じた。

その後の田単は、趙の軍勢を率いて、燕の中陽県を攻めて、これを占領した。さらに韓の注人県を攻めてこれを占領した。後に趙の宰相になった(『史記』「趙世家」)。また、同時代史料では『呂氏春秋』や『荀子』にも彼が優れた軍略を持っている旨の記述が間接的にあるが、それ以上の言及はなされていない。

司馬遷も「孫子の『始めは処女の如く敵に戸を開けさせ、後は脱兎の如く守る暇を与えない』とは、田単のことを言っているのだろう」と評し、『史記』に単独で列伝を立てていることからも、かなり高く評価していることが伺える。


李牧



李 牧(り ぼく、? - 紀元前229年)は、中国春秋戦国時代の趙国の武将。大将軍でもあり、武安君の称号を持つ。『史記』「廉頗藺相如列伝」において、司馬遷は李牧を「守戦の名将」と位置づけている。

ある日、匈奴の小隊が偵察に来た時、李牧は数千人を置き去りにして偽装の敗退を行い、わざと家畜を略奪させた。これに味をしめた匈奴単于が大軍の指揮を執ってやってきたが、李牧は伏兵を置き、左右の遊撃部隊で巧みに挟撃して匈奴軍を討った。結果、匈奴は十余万の騎兵を失うという大敗北に終わった。


その後、さらに代の北にいた東胡を破り、林胡を降したため、単于は敗走し、匈奴はその後十余年は趙の北方を越境して来なくなった。

紀元前243年、悼襄王の命で燕を討ち、武遂や方城などに侵攻した。

紀元前233年、秦は趙の赤麗および宜安を攻めたが、李牧はこれを破り退けた。その際、宜安を攻めた秦将・桓齮を討っている(あるいは敗走させた)。この功績により李牧は武安君に封じられた。

紀元前232年、秦は趙の番吾を攻めたが、李牧は秦軍を再び撃破した。さらに李牧は秦から韓、魏の国境まで領土を奪還した。当時、秦の攻撃を一時的にでも退けた武将は李牧と楚の項燕のみである。

紀元前229年、秦の王翦、楊端和、羌瘣が大軍を以て趙を攻め、王翦が井陘(現・河北省)を降した。そのため、趙は李牧と司馬尚(司馬卬の父)に応戦させた。苦戦した秦は李牧を排除するため、幽繆王の奸臣郭開に賄賂を送り、趙王と李牧との離間を画策した。郭開は趙王に「李牧と司馬尚が謀反を企てている」と讒言した。

趙の軍事を掌握し功名の高い李牧を内心恐れていた幽繆王はこれを疑い、郭開の言を聞き入れ、李牧を更迭しようとした。だが、李牧は王命を拒んだため、幽繆王によって密かに捕らえられて誅殺され、司馬尚も解任・更迭された。



李牧の死守する趙国がたった5ヶ月で滅亡した悲劇の理由とは?【キングダムネタバレ考察】


王翦



王 翦(おう せん、生没年不詳)は、中国戦国時代の秦の将軍。頻陽県東郷(現在の陝西省渭南市富平県の北東)の人。王賁の父。王離の祖父。秦王政(後の始皇帝)に仕えた戦国時代末期を代表する名将で、趙・楚を滅ぼすなど秦の天下統一に貢献した。
秦王政の11年に初めて史書に登場し、同僚の楊端和らと共に鄴を攻めて、さまざまな計略を用いてこれを陥落させている。これ以降、政に重用されていたが、老年になってからは重用されなくなった。


楚の平定に当たり、政から諸将へ見通しを問われた際、王翦は「兵60万が必要」と慎重な意見を述べたが、政は若い将軍の李信の「兵20万で十分」という積極的で勇猛に聞こえる意見を採用し、楚への侵攻を任せた。ここで王翦は自ら引退を申し出て隠居する。しかし、楚へ侵攻した秦軍は、楚軍の奇襲を受けて大敗した。楚軍はその勢いのままに秦へ向けて進軍し、楚の平定どころか秦が滅亡しかねない程の危機となった。政は楚を破れるのは王翦しかいないと判断し、王翦の邸宅を自ら訪ねて将軍の任を与え、王翦が先に述べた通り60万の兵を与える。これは秦のほぼ全軍であり、反乱を起こすには十分過ぎる数だったため、臣下には疑いを抱く者も多数いた。

王翦は、楚軍の迎撃に出るが、政自ら見送った席のみならず、行軍の途中ですら、勝利後の褒美は何がいいか、一族の今後の安泰は確かかなどを問う使者を政に逐一送った。そして国境付近に到着すると、堅固な砦を築いて楚軍を待ち受けた。楚軍もここへ到着し砦を攻め始めたが、その堅牢さに手を焼いた。一方の秦軍も防御に徹して砦から出なかったため、膠着状態となった。楚軍は、攻めても挑発しても秦軍の出てくる気配が全くなく、砦も堅牢なため、これでは戦にならないと引き上げ始めた。しかし、これこそ王翦の待っていた機会であった。追撃戦で楚軍を破るために、砦に篭る間も兵達に食料と休息を十分に与え、英気を養っていたのである。英気が余って遊びに興じる兵達を見て、王翦は「我が兵はようやく使えるようになったぞ」と喜んだという。王翦が指揮を執る秦軍は、楚軍の背後から襲い掛かり、戦闘態勢になかった楚軍を散々に打ち破った。王翦は、さらに楚に侵攻し、翌年にこれを滅ぼした。


王翦は、政に逐一送った使者について、部下から「余りに度々過ぎます。貴方はもっと欲の無い人だと思っていましたが」と訊ねられた際、「お前は秦王様の猜疑心の強さを知らない。今、私は反乱を起こそうと思えば、たやすく秦を征し得るだけの兵を指揮している。秦王様は自ら任せたものの、疑いが絶えないだろう。私は戦後の恩賞で頭が一杯であると絶えず知らせることで、反乱など全く考えていないことを示しているのだ」と答えた。

王翦は政の猜疑心の強さを良く理解していた。引退を申し出たのも、政は役に立つ人間には丁重だが、役に立たないと判断した人間には冷淡で、特に権勢があるものはどれだけ功績があろうとも些細な疑いで処刑・一族皆殺しにしかねなかったためである(呂不韋・樊於期という実例もある)。自分の意見が採用されなかったことで、政が「王翦は老いて衰え、弱気になった」と思っていると察し、素早く将軍の座から退いた。実際に引退を申し出た際、政は全く引き止めなかった。このため、政本人から将軍に請われ、ほぼ全軍を与えられてもいい気にならず、猜疑を打ち消す心配りを絶やさなかったのである。

王翦は、楚の平定後も政に疑いを持たれることなく、天寿を全うすることが出来たと言われる。



【ゆっくり歴史解説】王翦『第1回』・李牧と対決!



【ゆっくり歴史解説】王翦『第2回』引退とカムバック


周瑜


日本でも三国志で広く知られる中華を代表する名軍師、知将の一人です。


周 瑜(しゅう ゆ、拼音: Zhōu Yú チョウ ユ、175年 - 210年)は、中国後漢末期の武将。字は公瑾(こうきん)。渾名は周郎。揚州廬江郡舒県(現在の安徽省六安市舒城県)の人。高祖父は周栄。従祖父は周景。従父は周忠。父は周異。子は周循・周胤・周妃。妻は小喬

廬江郡の周家は後漢朝において、高祖父の周栄が尚書令になったのを始めに、従祖父の周景・従父の周忠が三公の1つである太尉を務めた名家である。父の周異も洛陽県令となっている。周瑜は成人すると立派な風采を備えるようになった。

孫堅が反董卓の連合軍に参加した際、彼の息子孫策の名声を聞いた周瑜は寿春に赴き、孫策と面会した。同い年の両者は親交を結んだ。孫策に舒への徙居を勧め、孫策はこれに従った。周瑜は大きな屋敷を孫策の一家に譲り、家族同然の付き合いをしたという。


立派な風采をしていた。知略・武略に優れており、その才能は曹操劉備からも恐れられるほどであった。実際に曹操は蒋幹を使者として周瑜の引き抜きを図り、劉備孫権に虚言を述べて、孫権周瑜を離間させようとしたが、いずれも失敗に終わっている。
寛大な性格で人心を掴むことが得意だった。しかし宿将の程普とだけは折り合いが悪く、程普は若輩の周瑜を度々侮辱していたのだが、周瑜はあくまで膝を屈して謙り続けたので、その謙譲さに程普も遂に感服し、周瑜を尊重するようになった。
若い頃より音楽に精通しており、演奏を聴いていると、たとえ宴会中酒盃が三度回った後でも僅かな間違いに気付いた。そのため当時の人々は「曲に誤りあれば周郎が振り向く」という歌を作って囃したという。
主君の孫策·孫権との関係は親しかった。孫策とは同年で年少の頃から知り合い、ともにお互いの母親へ挨拶するなど良好な関係だった。呉夫人も孫権に対し、周瑜を兄として仕えるよう命じている。孫権はしばしば周瑜に衣服を下賜し、夏服冬服合わせると百着にもおよんだが、諸将で彼に比肩できる者はいなかった。



周瑜三国志の英雄の死因



孫呉周瑜が君主になってもおかしくなかった理由


参考


start [中華史上に残る名高い名将特集]