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意外と知られていないベルリンの壁の実情

学校教育の世界史などでもサラッと流されてしまい、意外と知られずにいるベルリンの壁の当時の状況などを解説。


ベルリンの壁とは



ベルリンの壁(ベルリンのかべ、独: Berliner Mauer)は、第二次大戦後に敗戦国ドイツの首都ベルリンが東西に分割され、1961年夏に突然西ベルリンの周囲を取り囲む形で建設された壁である。



戦後に東西ドイツが成立して国境が閉鎖され、東ドイツの人々が西へ逃れるには東ドイツの中に存在する西ベルリンに行くことが唯一の方法であった。そして相次ぐ西側への人口流出で東ドイツに深刻な影響を及ぼしたことから、1961年8月13日に突然東ドイツが東西間の通行を全て遮断し、西ベルリンの周囲を全て有刺鉄線で隔離して、やがてコンクリートの壁を作った。



このベルリンの壁はドイツ分断と東西冷戦の象徴とされたが、1989年秋に東ドイツ国内の混乱の中で同年11月9日に東ドイツ政府の不用意な発表から、その日の夜に壁の前に多くの東ベルリン市民が押しかけて、壁を通過して西ベルリンに向かい、この日にベルリンの壁は崩壊した。



トリビアの泉ベルリンの壁は勘違いで崩壊した



ドイツベルリンの壁崩壊


日本での誤解



解説通り、ベルリンの壁は、あくまで当時の東ドイツの中の首都ベルリン内の西ドイツを囲む壁のことを差しています。



ただ、日本の中学校レベルまでの歴史の授業では、あまり掘り下げて解説をしないため(場合によっては触れずに終わる)、一部では、当時の東西ドイツの国境の部分に、まるで万里の長城のようにベルリンの壁が立てられていて、ドイツが二分されていた、というイメージを持つ人もいます。



なお、その場合、「ベルリンの」壁じゃなくない?という疑問も出てよさそうですが、元々あまり触れられない部分なので、あまり気にせず流されてきたこともあるとか。


背景



1945年5月8日、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線がドイツの無条件降伏により終わり、同年7月にベルリン郊外のポツダムでの会談でドイツの非軍事化・非ナチ化・民主化を主眼とする占領改革を進めることで合意された。このポツダム協定でドイツはアメリカ合衆国・イギリス・フランス・ソ連の戦勝4ヵ国の分割占領され、そして首都ベルリンもこの4ヵ国のそれぞれの管理地区に分割されることが決まった。



やがてアメリカとソ連が対立し、社会主義陣営に属する東ドイツ自由主義陣営に属する西ドイツが成立して、東西両陣営の冷戦時代になると、東ベルリンから西ベルリンへの人口流出が後を絶たず、危機感を抱いたソ連ドイツ民主共和国東ドイツ)は、1961年8月13日午前零時を期して深夜に突然西ベルリンを包囲して東西ベルリン間48キロを含む西ベルリンと東ドイツとが接する国境線155キロ余りの国境線の通行を一切遮断し、国境線から少し東ドイツ領内に入った地点に有刺鉄線を張り、やがて壁を建設した。



ベルリンの壁 崩壊の夜 9th Nov.1989 The Night from East-Berlin to Top of the Wall



【冷戦終結東西ドイツ- ベルリンの壁崩壊